昭和51年08月04日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 昨日吉井の熊谷さんがお届けされますのに、神様に無理を言うておかげを頂く。神様が願わんでも無理を言わなくてもおかげを下さる。神様が喜んでおかげを下さる。おかげにもこういう三つがあると言う様なお知らせを頂いとられます。神様にどうぞどうぞと言うてまぁ祈念力とでも申しましょうか、本当に強い祈念力のある人は祈念力でおかげを表す。おかげを頂く、一生懸命表行なんかして貰うて神様にお縋りをする。これなんか神様に無理を言うておかげを頂く。
 大体日本人の信仰というのはそういう特別な時に、神様にいうなら茶断ち塩断ちでもして、又は滝の水でも頂いて強引に神様を揺り動かす様にして、どうぞどうぞ願いが成就致しますようにというのが、神様やら仏様と言った様な程度の考え方しか持っていません様です。神様というのは無理をいうておかげを頂く、いわゆる悲しい時の神頼み的なおかげ、段々信心を分からして貰い、いわゆる教えを中心にして信心生活がでける。
 いうならば有り難い信心生活が出来てくる。そこには自ずと道が開けて来、自ずとおかげが頂けれる。その上にもうひとつ神様が喜んで下さるおかげ、その事をいわゆるまぁ神様にお願いをさせて頂いとりましたら、ピアノの前に座ってピアノの上の蓋をこう開けてね、そしてピアノを弾いておる。そしてこちらの沢山の人達に一緒に歌わせようと歌いよると歌よるじゃろか、歌よる姿勢を作っとるじゃろかという、こちらばっかり見とるけん自分の手の方が間違えとる。ピアノの間違っとるところを頂いたんです。
 どういう事だろうかと、例えばこの信心の調子というか、天地のリズムがリズムとして聞こえて来る様になり、自分の心の調子もその天地の調子にぴったり調和して、えもいわれん様な心の中からいわゆる妙賀の心、喜びの妙、心の中から喜びが湧いてきて、自分の手元自分の心の中を見極め見極めしての、いうなら手元を見て弾くならば、よい音律が必ず出て来る。奏でられる訳です。その音律には踊らなければおられない、歌わなければおられないと言う様な妙境が開けて来る訳です。
 家族の中の例えば信心、又は教会というてもよし教団というてもよい。教団といわれる御取次成就信心生活運動の、新発足を致しまして中心になりそこから、祈願詞唱えさせて頂く様な素晴らしい信心を、生みなしていこうという運動であります。そこで本部の方の方達が全教の皆んなにね、者がそれについて踊らなければおられない、それについて唱和していかなければおられないほどしのものが、本部自体にそういう調子が出てきたら、もうついて来るなと言わんでも、心がうきうきして踊り出さずにおられない。
 その音律には自分も一緒に唱和していかなければ、おられない様なものが生まれて来る。しかしながら難しい事です。そういう私は手元のところの、心の調子を整えてよい音色が出る、いわゆる有り難い勿体ないの心の、湧いて来る様な信心から生まれて来るのが、神様のお喜び下さって神様も一緒に歌い、一緒に踊って下さる様なおかげだと思うんです。徳のない間は心配する。神徳を受ければ心配はない。金光様の御信心はもうこの教えの全てが、御神徳を受けさせて頂くための道を説いて下さってある。
 その手立てであると言う風に、皆さんに聞いて頂くんですけども、私はこれはやっぱりあんまりの信心だと、初めから御神徳、初めから徳を受けるということばかりを、これは説いてもねえ、それを本当に行じて行かないならば只説くだけの事になる。又は信者一般は聞くだけの事になる。問題はいよいよ私自身の手元のところが、素晴らしい音色が出る様なおかげを頂いて、それについてね、そうせよではなくてそうせねばならんということを、自分で思う信心が育ってこなければいけない。出来ないという風にね。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならんとこう仰る。だから人間は万物の霊長である自覚に立ってせよではない。自分自身が霊長の自覚に立ってね、霊長としての値打をいよいよ発揮でけれる、研き出していけれる心の状態を、自分が作らねばならんということである。だからねお徳を受けよではなくてね、受けねばならんという思いに、皆んながなってこなければ頂けない。勿論御神徳というてもピンからキリまでありましょう。
 恐らく一生涯かかって、いうなら心配はないと仰せられる、その心配が無いところまでのというのは生涯かかっても、実をいうたら出ける事ではないかも分かりません。信心しとるけん心配いりませんというのは、厳密に言うならばそれは嘘だということになる。やっぱり不安であり心配である。但しギリギリの時にはです、神様がおかげを下さると確信はして居っても、その間不安がやはり出て来るのであり心配である。同時に心配というものもです、やはり程度がありますから。
 たった十か二十ぐらいな心配事に、もういわば頭が上がらんくらいに心配する人があるかと思うと、そのくらいな事は平気だけれども、平気だという人が五十の心配になるとやっぱり同じ心配をしておる。百の事なら安心だけれども、もう二百の事になるとやはり迷うておると言う様にです、心配というのはもうその、まぁ心配の本質と言った様なものは完璧に頂くと言った様な事は、でけんのじゃないかと思いますけれども。
 ここまでは信心のある者とない者、親のある子と無い子のほど違いと仰せられるのですから、その違いを感じれれるねえ。十年信心しておった者よりも二十年信心に打ち込んだ者は、それだけの力があり、それだけの安心の範囲というものも、広いと言う様に限りなくこれは広げ進めて行くということだと思うです。皆さんがはぁ先生心配なりこげな事が起こりましたと、例えばいうて来ても、皆さんが心配しておられる事には、私はもうそれこそ手を叩いて喜んでると言う様な場合なんです。
 そこを通らなきゃ力は付かん。そこを通らなきゃほんな信心は分からんと、こうまぁ言えれる私。ところがほんなら私に下さる心配というか悩みというものは、だから又ちっと段の違う悩みであり心配であるということになる訳ですから、限りが無いです。だから本当の意味に於いての御神徳を受けるということ。それこそ天地の親神様と一体であるという様な、心の状態をいよいよ目指していかなければならん。無理をいうて頂くおかげ、黙っておっても下さるおかげ。神様が喜んで下さるおかげ。
 まぁ一生懸命精進しよる一生懸命努めよる、そして例えばこれは私の事にするなら、なぁんにも要りません。何処に行こうとも何を食べたいとも、あれも欲しいこれも欲しいと思いません。只人が助かる事さえ出来ればの事に精進させて頂きますと、神様に誓いを立ててね、それこそ欲しいも、いうならば我情を捨てて、自分の思いを捨てておる積りであってもね、何かいうなら私好みの素晴らしい。例えば物があったらあぁこれはいいなと、安かなら買うたっちゃよかばってんと思う様な心がちらっと出て来る。
 昨日の御理解の中に申しました様に、先日十四・五日も前だったでしょうか、テレビで対馬の硯をテレビでみんなに紹介しておりました。そりゃなかなか素晴らしい硯でした。それで希望者には、まぁテレビ局の方へ申し込むと抽選で何名かは分けて貰えるという訳です。私とたまたま高橋さんと二人でそれを見よりました。素晴らしい初めてあんな硯を見た。あれは五万円ぐらいなら責て五万円位ならば、買うたっちゃよかと言わんばってん、まぁそう言う様な意味の話をしておった。
 勿論思うても買いはしません。例え五万円もする事ですから、そう言うてそんな話をしながら見よりましたら、最後に何名様に分けてあげるというのが、一番安くて十五万円だった。もうてんでもうとにかく歯は立たんと、よかこつはよかけれどもと思いよったら、この一日の月次祭に、その硯のお供えがあった。あちらへ行ってから、親先生に何か喜んで頂くような、お土産はないだろうかと思うて、一生懸命探さして頂いたら、その硯を捜し当てた。
 それでまぁ買うて来たとこういう訳なんです。これなんかは例えばなら私がね、一生懸命まぁ例えば一生懸命でないでしょうけれども、神様の目からご覧になれば、只人が助かる事さえ出来ればどげな修行でも致しますと、人が助かる事さえ出来れば、私はあれも欲しいとかあれが食べたいとかという、我情我欲は申しませんと、というて一生懸命精進しよる。言うならば欲しいものがあってもです、言うならば欲しいとは言わんけれども、神様の目からご覧になると、如何にも欲しゅうしてたまらん様に。
 それこそ指をくわえとる様な姿ではないでしょうかねえ。それを例えば親が見た時にです、例えば先日にもありました。旅行があるけれども家庭の状態を知っとるから行こうとは言わん。友達が誘いに来るけれども、僕はこんだ行かんといよる。それを親が見てからでね、子供の心が分かるからこれは自分の、例えば質を置いてでも旅費を作ろうと親が思うたという、お届けがありましたが。
 それと同じ様なものじゃないでしょうか。いうならば一生懸命精進しておるから、それに対して黙っておかげを下さるという、まぁ私が頂いとるのはそういうところじゃなかろうかと思うんです。皆さんの場合はどうでしょうか。これはいよいよもって神様が喜んで下さる、喜んで下さるおかげを頂かして貰えれる様な、おかげを頂きたいとこれからの信心にね、熱情をいよいよかけていかねばならない。
 私は昨日梅の実会でお話をさせて頂いた事が、とにかく徹底して御神徳を頂く話をした事に後から気が付いた。若い嫁さん達には若い嫁さん達のいろんな悩みがある。はぁあんたげんババしゃんな、あがしこ信心しよってそげなこつ言うとの、というごたる事をやっぱ言うんです。あんたがたんお母さんはそげんな事もあるのと、初めて聞く事を聞くんです。如何に合楽でと自分の家が、で皆さん違うかということが、嫁さん達の話を聞いて分かるです。
 だからね、そこをね、あの頂いて先日から戎浦さんのお話をしました。病院に勤めておる。もうそれこそ忙しゅうしてしよんなかばってん、鬼のごたると言う様な、まぁ院長さんであったり奥さんであったりする訳なんです。だから長く続かない従業員が、もう初めの間はそれが通うのが、もう憂欝になる位であったけれどもね、院長さんが親先生と思わせて頂く様になって、まぁいうなら矢でも鉄砲でも受けようと、いう気にならせて頂いたら有り難うなった。
 従業員の人達にも自分が年取っておられるけれども、後から勤めに入っとられますから、まぁ悔やみ話の時なんかは、もうあんた達が私にどげん皮肉したっちゃよかばい、どげん虐めたっちゃよかよ、もうどういう事が起こったっちゃ、私しゃもう信心で受けると腹を決めたからと言うて、その言う様に生き方をみんなにも宣伝された。だから皮肉を言う人がなくなった。もうあの人はいくらこなしたっちゃこなし甲斐がないと、言う訳で先輩の人達でもそれをせんようになった。
 そして又不思議な事がそれこそ、漫画的なおかげですと言わねばおられない様な事が起こった。もうそれこそ今迄かつてない、院長さんと奥さんとの思い立ちで、今夜はそのビヤホールですかに、皆んなを連れて行くということであった。皆んながびっくりしてから、けれども行ってからそれこそもう、あの奥さんと先生がもう本当に、日頃は御苦労さんというて、もうなおられて大変な素晴らしい雰囲気が出来てきた。今迄かつてない事であったというならおかげが生まれてきた。
 だからもう徹底して受けるという気になったらね、そういう自分が助かるじゃなくて、人までも周囲までも、楽になるおかげが頂かれるんだ。自分自身がその気になったらリラックスになれる。そこにはシャープなおかげが生まれて来る。それを最近合楽では漫画的なおかげというておるけれども、そこのところから信心をひとつ進めていかなければならんという話を、徹底して聞いて頂いたんですけれどもです、これは私はいわば御神徳を頂いていくお話、もう徹底したお話を聞いて貰うたけれども。
 こりゃやっぱり嫁さん達の悩みは悩みとして聞いて、その悩みのところを一生懸命縋りなさいということを覚えたり、一生懸命に大祓心行に打ち込んでご覧とか、という手前のところを説かなければ、教えておかなければいけなかったなと私は気が付いた。皆さんの場合でもそうです。私が説くところ何時もギリギリ御神徳を受けるなら、こういう信心ということを皆さんに聞いて頂いておるから、自分がそうせねばならんじゃない、そうしなければおられんそうせねばならんと。
 自分で決めてかかれる腹を作るためには、その前提として神様に地団駄踏んで願う様な信心もね、どげな修行でもしますからとい言った様な信心も、一生懸命の大祓心行もそれこそやらせて貰おうと、言う様な信心を先ず教える、説くということのが本当だなという風に思うたんです。だからそういう過程を踏んで、神様一生懸命に御無理を申し上げると、こんなおかげも下さると言う様な体験を積んで、次にあれも欲しくないこれも欲しくないと言う様な、私が今通っておる様な。
 実際は心の底には厳密にいうと欲しいて思いよる。デパートなんか行ってあれが欲しいのこれが欲しいのと思うた事がない。昔はぁあれがいっちょう買うたならと思いよったけれども、確かにそういう思わんで済む様になったけれども、もう一つの奥の心をいうたら分からん。いうなら自分の心を顕微鏡で眺めるような気持ちになったらないとは限らん。その証拠にはなの証拠ばしなさらん。
 そこでです、私は今日そういう一つの信心の過程というか、一生懸命の神様に御無理をいうておかげを受ける信心から、御無理を言わんでもね、それこそ「欲しいとは思いません、おかげを頂くまでは」と、「欲しがりません勝つまでは」と言う様な標語が戦時中にありましたよね。ですから神願を立てる大きな願いを立てる。だからこのことが成就するまでは、自分で我情我欲を言いませんと、いうくらいな信心は、お互い進んでいかなければならない。
 自分は我がまま勝手をしながら、そして大きな願いをするて言ったって、そりゃ駄目だという風にです、皆さんがそうせねばならんのじゃない、そう思わねばならんということなんです。自分がそう思わなきゃならんというのです。でなかったら次の修行がしるしゅうなる。だからそういう信心をさせて頂く為には、どういう信心をさせて頂いたならよいかと、私は今朝から思わせて頂いておりましたらね。あのう京都のあの舞子さんの姿がね、だらりの帯をしております。
 そのだらりの帯がえらい大きいもんですから。こうずんだれよる。それを下に棒を持ってきてからそれに支えちゃるところを頂いた。まぁあげな事があろう筈はありませんよね。帯がずんだれよるのを、下に棒でこうやって支えちゃる。そしてこう前の方を見たらほんな帯じゃなかもん。何ちいうですかね、後についとるとだけがほんなもんで、前の方は名古屋帯かなんかいうですか、前のだけの帯があるでしょうが、あれじゃん。
 そして後の重かとこの方にはずんだれんごとこうやって棒が、おかしなお知らせを頂いたけれども考えてみるとです、お互いがしっかり信心の帯をせよと言われるけれども、しとるごとあるけれどもその程度のこつじゃなかじゃろか。まぁだ朝参りがちったじゅつなか、棒がこうやってつんばってある。時々は大祓心行も欠けたりする様な事になったり、もうその事がね、例えば朝参りなら朝参りが嬉しゅうして楽しゅうし、て大祓心行させて貰わなければそれこそ、日々の御礼申しつつと言った様な心が生まれてこない。
 そういう信心がです、本当に有り難いものになってくる。自動車の運転免許を取らせて頂いたら、自動車を運転する事が苦にならない様に、本当の信心が身に付いたらもうそこは楽になれれる。そこが私は本当はリラックス、そこから生まれて来る。安静な心というそれが私は信心で云うリラックスだ。
 昨日ある人がリラックスという御理解を頂く様になってから。本当にリラックスになりましたという人があるんです。それこそ心行も自分の都合のいい時だけすると、お参りも自分の都合の良い時だけ、楽にしてお参りがでけると言った様な意味の事をいうから、それは私が言っておるリラックスじゃないよと、信心修行させて頂いて心がだから安心、心が楽なそれを私が言うリラックス、でなかったら次のシャープなおかげになってこないというて、お話をした事ですけれどね。
 私共の信心がまぁだしっかりしとるごたる信心の上に、まぁあだ支えがいる位な事ではなかろうか。本気で信心の帯をしっかり締め上げて、身の軽うなる様なおかげを頂かせて貰う、そういう修行が私はお道の信心は、この54節にある様に結局はね、心配はないと言う所まで、信心をさせて頂くそれが目指しなんだ。それにはおかげを受けるから安心ではない。神徳を受けていくから次第に安心の分野が広がっていく、喜びの場がいよいよ深く広くなってくる。そういうことをです。
 この54節には教えておられるのではなかろうか。神徳を受ければ心配はないぞ、だからこげな風な信心をすると、神徳を受けられるぞとギリギリのお話を、私は今迄してきた様に思う。昨日梅の実会にまぁいうなら、初心と言った様な方達が多い。若い嫁さん達にこんな難しい事を言うてと、後で気付かせて頂いたんですけれども、そして信心を時間を追い、時を追うて段々せめて願わんでも、おかげは神様が下さる。心の中にちょっと欲しいと思うただけでも。神様がおかげを見せて下さる位な所までは。
 ひとつお互い信心を進めていきたいと思うですね。そして目指す所はです、熊谷さんが頂いとられる様にね、神様が喜んでおかげを下さると言う様な信心、それには自分のやはり手元の所足元の所、ピアノを弾く人がやはり自分の手元を見ながら、足元をしっかり踏まえながらの、いうならばよいそれが音律でありリズムであるならば、子供は踊れと言わんでも踊り出す周囲の者が歌うなと言うても、それに連れて歌わなければおられない様なリズムが、自分の心から流れ出てくる様な、おかげを目指して信心をさせて頂きたい。
   どうぞ。